カッコいい

「男のお茶と急須」祖父と父へのラブレター

福知山市公立大学教授谷口知弘

緑茶のふるさと宇治田原が私のふるさと

私のふるさと宇治田原町湯屋谷は江戸時代の中頃に緑茶の製法を世に広めた茶祖永谷宗円の暮らした山里です。そんな里で祖父はお茶の生産に欠かせない竹かごを編む職人でした。子どもの頃の原風景の一つは土間で竹かごを編む祖父の姿、大きく分厚い手のひらです。

我が家は、男は竹かごを編み、女は日用品を商う田舎のよろず屋でした。おのずと人の出入りは多く、店より一段下がった階下の土間で竹かごを編む祖父の元にも良く客が寄っていました。

茶を淹れる祖父の所作のカッコ良さ

祖父は客が来ると仕事の手を休め、にこにこしながら茶櫃(ちゃひつ)から急須と湯のみを取り出し、茶櫃の蓋をひっくり返して丸盆にして客数分だけ湯のみを並べます。黒くなったブリキの茶筒の蓋に茶葉を計るように一度入れ急須に移します。お湯はいつも火鉢にかけたやかんに沸いていました。湯冷ましをしていたかは記憶にありません。湯を急須に注ぎ一時待って並べた湯のみに順に少しずつ注ぎ、円を描くように何周かすると小さな湯のみの半分ぐらいまでお茶が溜まります。最後は急須を強めに振り一滴二滴と絞り出すように注ぎます。この最後の一滴二滴を注ぎ切る動作を見るのが好きでした。なんともカッコ良かったのす。

茶処に生まれた男の使命、誇り、楽しみ

父はサラリーマンとなりましたが、同じ家に暮らし客が来れば祖父と同じように茶櫃から急須と湯のみを取り出し盆に並べてお茶を淹れていました。父には父専用の茶櫃がありました。ちょうどインスタントコーヒーが出はじめた頃だったんでしょうか。母がコーヒーを出す姿もうっすらと記憶に残っています。

男が急須で入れるお茶はもっぱら煎茶でした。今は、玉露やかぶせ茶※が人気で「うま味」や「甘味」が好まれていますが、当時は「苦味」や「渋味」を今よりも楽しんでいたのでしょう。子どもには飲めたものではありませんでした。子どもや女は母が毎朝大きなやかんで沸かす番茶を飲んでいました。

息子たちに伝える男のお茶と急須

父は自ら番茶を沸かしたり、コーヒーを淹れることは決してありません。煎茶は自ら淹れ客人に振舞うのにです。煎茶を淹れる行為を身につけ継承することは、茶処に生まれた男に課せられた使命であり、誇りであり、そして楽しみであるのかもしれません。

さて、私とお茶を振り返りますと故郷を出てもうじき40年、自ら急須でお茶を淹れることはほとんどありませんでした。50が近づき故郷がなんとも恋しくなってきた頃、たまたま宇治茶世界遺産登録の仕事に関わることとなり、お茶の淹れ方を宇治田原や和束の方々に学ぶ機会を得ました。そこで思い出したのが、長い間記憶の引き出しの奥の方に仕舞い込まれていた祖父や父のお茶を淹れる姿でした。そして近頃、自分の急須と湯のみを手に入れました。50半ばを前にして、漸くお茶を淹れる楽しみを覚え、研究室を訪ねてくださる方に煎茶を振舞えるようになりました。お茶を淹れる祖父や父の姿と自身の姿が重なります。

お茶を淹れる「祖父の笑顔」と「父の背中」があって今の自分がここに在るのだと強く感じます。祖父と父への恩返しは、息子たちに「男のお茶と急須」を伝えることかもしれません。傘寿を迎えた父にこの気持ちを伝えたい、でも面と向かって言えるもんではありません。男同志とはそう言うもんです。書いていくうちに祖父と父への感謝のラブレターになりました。想いをしたためる機会をくださったHさん、ありがとうございました。(2016年10月24日公開)

※日本茶の栽培法のひとつ。栽培中一定期間覆いをかけ、遮光することで渋みのもとであるカテキンが茶葉に生成するのを抑え、旨みのもとであるテアニンの生成を促す。

ページの先頭へ