文化だ

お茶のひと時を取り戻すために

京都府立大学生命環境学部教授・副学長宗田好史

人々が集う場と平等な人間関係をもたらした茶とコーヒー

中国東南部で起こった飲茶の習慣は16世紀には西欧諸国に,その後インドや北米にも広がり,多様な喫茶文化を育んできた。特に日本では15,6世紀に茶の湯として大きな発展をみた。また,エチオピア原産のコーヒーもやはり16世紀にトルコで最初のカフェが開かれ,その後はまず西欧諸国に,そして世界中に多様なカフェ文化を発展させた。最初は王侯貴族だけの,その後も富裕階級の特権だった茶とコーヒーは,封建制が終焉した頃,カフェを通して普通の人々にも広がっていった。人々の暮らしは,少しずつではあったが着実に豊かに,そして自由になり,茶やコーヒーが楽しめるまでになったのである。豊かな人々は都市に集まり,その華やぎと賑わいの象徴が茶とコーヒーだった。パリのカフェ,イタリアのバール,中国の茶餐庁,日本の茶屋や喫茶店などは,どの時代にも人々が集い語り合う場であった。

それは,やがて家庭や職場にも広がっていった。まず茶が,やがてコーヒーが普及し,家族や同僚と,たまには客人を招いて,楽しいひと時を過ごす習慣が定着した。農作業の合間に,また工房の片隅で一服の茶を楽しむひと時は,身分の上下,主従関係を超えた語らいの場であり,奴隷でも機械でもない自分自身が居心地よく過ごすために必要な時間であった。

思い返せば,このように街中や家庭,そして職場で,誰もが喫茶のひと時を楽しむようになるまでには,人類は多大な時間を必要とした。もちろん,社会が平和で皆が豊かでなければこのひと時は得られない。比較的現代に近い家族生活のあり方と近代社会らしい働き方が定着したことによって,人々は兄弟のように思いやりをもちあう自由で平等な人間関係を手に入れた。

日常を居心地よいものにする茶やコーヒー

茶やコーヒーの普及よりもはるかに古い飲酒と喫茶を比べてみよう。飲み方がまるで違う。祭祀に伴う飲酒から祝祭行事に広がった飲酒は,今でも日常を離れた歓談のひと時とその場に不可欠な習慣である。仕事を終えて,職場から離れて,皆でリラックスするために飲む。それに対して,茶やコーヒーはあくまで日常の中で飲む。次の作業をスムーズに進めるため,一服の後にはより居心地良く過ごすために家族や同僚と毎日飲む。

茶室のように花やお軸を語れとまでは言わないが,気の利いた茶飲み話があれば職場も家庭も円満になる。茶飲み話を通じて互いを少しだけ深く知り,知るからこそ互いを思いやろうとする。そんなひと時はお茶があってこそのもの,何気ない茶のみ話でも,その場をゆったりと演出し,気の利いた相槌を打つだけの間をもたせることができれば,赤の他人でも円満に話が進む。初めて会う娘の彼氏とも打ち溶けられるかもしれない。だから,お茶は急須で淹れる。茶器を選ぶ。茶道の嗜みがあってもなくても,一緒に過ごす人のために,美味しい茶葉(リーフ)と季節の器を用意する。

大切なものが失われていく

初めての職場に私の茶碗はなかった。それに気づいて,翌日私に茶碗を持ってきてくれた人がいた。陶器祭りの屋台で買った安物だと謙遜してくれた。あれから30回目の春が巡り職場も変わった。もちろん,その茶碗は今日も私のデスクの上で湯気を立てている。これまで何人の同僚とどれだけの茶飲み話をしたことだろう。私には,あの人の謙虚さは終ぞ身につかなかったと,茶碗を見るたびに少しだけ反省する。

その職場でも,お茶の飲む機会が減ったように思う。多くの家庭でも急須でお茶を飲まなくなったという。私たちが失くしたものは急須や茶碗だけではない。茶のひと時,家族の絆,職場の輪,人をより深く知り思いやる機会,居心地のよさを感じさせる術,人類が長年かかって手に入れた人間らしさを失くしたように思う人たちがいる。

暮しの変化に対応した普及の努力を

だからといって,その責任をすべてPET(ポリエチレン・テレフタラート)ボトルに被せるのも変だ。炭酸や果実飲料より緑茶飲料を好む多くの人の救いでもある。母親が子供にコーラでなくペットボトルのお茶を出すことは,急須でないことが残念である反面,お茶であることが救いである。だから問題は,急須でお茶を淹れないことにある。それは,ペットボトルほどには茶葉と器の生産者が社会の変化に追い付いていないからだろう。ペットボトルが普及したこの30年間にはバブル崩壊など大きな変化があった。職場も家庭もすっかり変わった。昔ながらの時間を過ごすことができるのは,一部の裕福な高齢者だけ。そのためだけに,昔ながらにお茶を作りつづけることが最善ではない。保守的な主張をどれだけ繰り返そうと,大多数の人々は昔に帰りたいとは思わない。

しかし,考えてみよう。変わったからこそ,茶のひと時を通じて家族の絆や職場の輪を必要とする人が増えた。人を深く知り思いやることを切望する人が増えている。だから,お茶を作る側にも責任がある。大量に作り売り捌くことを考えた時代があった。品質を上げる努力を続けた時代もあった。しかし大量生産は時代遅れ,高品質もあまり求められない。そう,デフレが四半世紀も続いている。美味しくても安い。誰もが簡単に美味しく淹れられる茶葉と急須が要る。昔がよかったと言って,時代の変化に翻弄される人々に寄り添う努力を放棄してはいけない。生産者だからこそできることは,まだまだ多いのではないだろうか。(了) (2017年4月12日公開)

 

京都府立大学 教員紹介 宗田好史教授
http://kpu-ed.jp/html/staff/muneta.html

著書
『にぎわいを呼ぶイタリアのまちづくり 歴史的景観の再生と商業政策』学芸出版社 2000
『中心市街地の創造力 暮らしの変化をとらえた再生への道』学芸出版社 2007
『創造都市のための観光振興 小さなビジネスを育てるまちづくり』学芸出版社 2009
『町家再生の論理 創造的まちづくりへの方途』学芸出版社 2009
『なぜイタリアの村は美しく元気なのか 市民のスロー志向に応えた農村の選択』学芸出版社 2012 など

共編著・監修
『都市に自然をとりもどす 市民参加ですすめる環境再生のまちづくり』神吉紀世子,北元敏夫,あおぞら財団,公害地域再生センター共編著 学芸出版社 2000
『京都観光学のススメ』井口和起,上田純一,野田浩資共著 人文書院 2005
『京都町家案内 京町家を、知る、訪ねる、味わう。』監修 コトコト らくたび文庫ワイド 2009

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